7月27日(日)、8月2日 (土) 暁天講座 開講のお知らせ

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天満別院では、7月27日(日)、8月2日(土)両日ともに午前6時から1階講堂に於いて暁天講座が開講されます。

6時から晨朝(おあさじ)が勤まり、その後のご法話となります。

御講師には、本願寺派 如来寺  釈 徹宗 師にお越しいただきます。

7月27日(日)の講題は『柔らかな心と堅い心』、

8月2日(土)の講題は『ことばと仏教』のもと、お話しをいただきます。

暁天講座は、夏の暑さを避け、早朝の澄んだ空気の中で親鸞聖人が顕かにされた本願念仏のみ教えをともに聴聞いただく公開講座です。

尚、講座終了後には軽食のご用意があります。(ご提供:太田石材店さま)

皆様お誘い合わせのうえ、ご参拝くださいますようご案内申し上げます。

暁天講座ご案内

「Q&A」法話で「世の中と私たちの心に真実はない」と聞きました。本当でしょうか?

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仏教では「世の中」は「無常」と教えられます。例えば、整頓された部屋も時間が経てば散らかりますし、淹れたてのコーヒーも時間とともに香りを損ないます。熱烈な恋愛感情もやがては冷めてしまうでしょう。世の中に永久不変のものはない。これが無常ということです。誰もが経験上よく知っている。だけれども、どうしてもそこに永遠性を求めてしまう。美しいものや愛するものは、永遠にそうあって欲しいと願い、これこそ真実だとしがみつくことをやめることができません。

こうした「私たちの心」は、「無明」だと教えられます。明るさが無い。暗闇の中で手探りに何かを求め、そこに永遠性を求めます。大自然に感動し、音楽を愛で、人を慈しみ、友情を分かち合っては、この心こそが本物だと喜びます。しかし、その同じ心が、怒り、腹立ち、そねみ、妬みの感情をも生み出します。心そのものも無常であって、いっときもとどまることはありません。

私たちは、こうしたことを頭で理解しても、残念ながら本当にそれを心に落とし込むことができません。相変わらず、目の前のものにしがみつくことをやめることができません。私たちの心そのものが真実となることはないようです。しかし、無明の心を教えられるところに、その暗さを照らす光に思いを馳せるということが起こります。だからこそ、「世の中と私たちの心に真実はない」と教えられては、その都度そこに響く南無阿弥陀仏に手が合わさるのです。

(第7組   了願寺   安間   観志)

「Q&A」ご利益ってどんなこと?

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 「利益」という漢字は、私たちの日常語では「りえき」と読みますね。この場合、利すること・ためになることを意味します。「利益(りえき)をあげる」などと聞くと、なんだか得をした気分になります。私たちの日常生活では、損か得かはとても重要な関心事です。
およそ二五〇〇年前、お釈迦様がお生まれになった頃のインドでも、いかに実利(現実の利益(りえき))を得るかということは、人生の大きな目的の一つでした。王族としてお生まれになった釈尊もまた、いかに領土を拡張し、王の利益(りえき)を増大するかといった実利の学を修められたことでしょう。しかし、実利を得ることに翻弄されつつもやがては死に行く人間のあり方を厭(いと)い、出家の道を選ばれました。損得を超えるあり方を探求されたのです。
お釈迦様が立たれた道は、仏の道でした。仏の道とは、私たち衆生をすべて救おうという道です。「利益」を仏教では「りやく」と読みます。「ご利益(りやく)」と聞くと俗語の意味に引きづられて、病気を治し、寿命が伸び、金銭や名誉などを得ることを思い浮かべるかもしれません。しかし、実は、そうした人間の願望を超えた道が、仏様から自然に与えられていることを意味します。「ご利益(りやく)」とは、世間的な損得を超えて、仏様のお救いに私たちがあずからせていただいているということなのです。

(第7組   了願寺   安間   観志)

5月24日(土)定例法話 開催のお知らせ

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天満別院では、5月24日(土)13時30分より本堂にて定例法話が開催されます。

御講師には、教應寺 建部 智宏 師をお招きし、

講題「思わず出てくるものの尊さ」についてお話しいただく予定です。

皆様お誘い合わせのうえ、是非ご参拝くださいますようご案内申し上げます。

5月定例法話ご案内

「Q&A」お寺や神社で行っている祈願は効果があるのですか?

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答え

 大変大切なことに気付かれました。ブラシーボ効果(偽薬効果)という言葉があります。権威あるお医者さんからよく眠れる薬ですとビタミン剤(偽薬)を与えられて、自分でも効く薬だと思うことによって、よく眠れましたと。本物のように効果があるということです。

私が小学生のころ(昭和40年代)近くの商店街でくじ引きがあり初めて行くときに一度やってみようとお内仏へお参りしていきました。すると一等賞コーヒー牛乳一ケ月分が当たったのでした。お皿セットや春日神社初詣券など次々と当たり、これは効果があるのだと思い必ずお参りをしていきました。ところがそんなに世の中は甘くありません。だんだん当たることはなくなりました。それでようやくそこには何の因果関係もないことを知りました。これで済めばいいのですが「祈り」には実は大切なことがあります。よくご年配の方々が健康で病気もせず認知症にならず寝たきりにもならずぽっくり死にたいといわれる方が多くおられます。今でもよく聞く言葉です。またぽっくり寺というお寺も各地にあります。これは「未来」を救ってほしいという「祈り」です。浄土教の中にある「臨終来迎」も同じ意味 でしょう。しかし一番大切なのは「今」を救えるかということにあります。

私達は「老病死」の身をもって生きています。どうにもならない身を持つとそこには祈ることしかありません。しかしここからしか生きる道はないのです。祈りを大切に。

(第6組  専宗寺  本田  哲)